「上腕三頭筋は手に持ったオモリを支えられるのか」を考える [その3. 理由]
今回紹介したような「例として不適な内容」が用いられてしまうのはどうしてでしょうか。
また、それを受け取る方も、どのようなことに気をつければ良いのでしょうか。
◆ 比較する時、「異なる箇所」が複数あると大変になる
今回は、手に持ったオモリを『上に動かす(肘を曲げる)・下に動かす(肘を伸ばす)』という動作を、それぞれの「動作を担う筋肉」の紹介とともに、その「発生させる力」の違いを説明しようとしたものでした。
比較することは
(1) オモリを上げる・下げる
(2) 異なる筋肉の出力(力点の違い)
だったのですが、実際には
(3) てこの種類の違い(作用点から力点へ働きかける力の向きの違い)
が、隠れていました。
(触れられていなかったので、おそらく意識から抜けていたのだろうと推測します)
こうした「比べる時に違う箇所が複数ある」場合では、その複数の違いが掛け合わさり考えなくてはならない範囲が増えてしまいますね。
特に今回は、意識的に「動かす方向」と「筋肉の部位」と二点の違いがあった上に、もう一点の違いを失念したっぽいのでなおさらです。
比較をする時に、その差異が一つであれば単純ですよね。
例えば『(1)オモリを上げる・下げる』と『上腕二頭筋の働き』だけを説明するのであれば、さほど難しくはありません。
上げる方では、肘関節のてこの仕組みと上腕二頭筋の収縮&出力。
下げる方では、オモリが重力によって降りる力によって弛緩した筋肉が引かれる力。(ついでに伸張性収縮などにも触れられますしね。)
ですが、オモリを下ろす=肘を伸ばす時の筋肉に上腕三頭筋を持ち出したことで比較する点が増え、見落としが出てしまったのではないかと推測します。
同時に複数起きていることを一度に考えるのはなかなか難しいですよね。
ですから、比較して考える時には、変化や差異についての一つ一つの構成要素について確認と理解をし、それらを合わせた時にも相互に矛盾や破綻が起きていないかを確認することが大切だと考えます。
自転車のライディングも同様ですね。
自転車自体の動きとライダーの身体動作は、それぞれに複雑な要素を持っている上に作用し合っているので、考えることはとても多くなりますね。
ですから、注意深く考える必要があります。
◆ 「動作」と「重力」、「筋肉・筋出力」について
動作における筋肉の動きや出力について考える時には、その力が伝わる対象や、その他に存在する力の影響も考えます。
今回の例では、最初は「重力」の存在が認識されていたのに、上腕三頭筋の時にはその存在があやふやになっていました。
重力は、地球上である限り必ず作用する力ですし「上下」を決定づける基準となりますから、常に意識しておく必要があります。
また、重力以外にも、手で押して動かす物体であったり、跳ねる時に踏み込む地面であったり、空気抵抗だったりと言う「身体の外に存在する力」がありますね。
身体の動作を行う「筋肉」の力も、それが骨格を伝って外部の力と接触し、その影響を受けるわけです。
その流れは、筋肉の出力→関節の動き(作用点での力の大きさと方向)→外部への作用→外部からの反作用→筋肉(逆に伝わる)、といった感じですかね。
さらに、筋肉の働きで関節が動くと、それによってカラダの重量バランスも変わり、バランスを取るために足位置が動いたり筋肉が稼働したりなどの変化もあります。
また、体全体が静止しているのか動いているのかなどで慣性の働きが変わりますので、前提を置いて限定的な範囲で考え、同じように限定範囲で考えたものを合わせて一つの形にする、という手法も必要となります。
このように、筋肉によって発せられた「力」は外部との関係や物理法則の下に考えることができますし、そう考えなくては実際の動作について考える時には役に立たないということになります。
考える時だけではなく、こうした書籍や情報に触れる時にも、どんなことに気をつければ良いのかについても考えてみます。
◆ バイアスの存在
誤っていることを正しいことと認識してしまう時には、一種の「思い込み」が発生しているのだと考えられます。
この「思い込み」は「バイアス」と呼ばれます。
今回の場合は、肘関節の伸展動作についての二つの説明のうち、片方が例として適していたため、その反対の動きも当然そのまま適したものだろう、という思い込みが働いたものと推測します。
これは、説明を試みる側としてはよくあることで、多くは説明しているうちに気がつくのですが、このバイアスが強く作用しているとそのままにしてしまったりします。
反対に、受け取る側にも、このバイアスが存在することがあります。
例えば、今回のように書籍になっているものについてはやはりある程度の信頼感があるので「そういうものか」と受け取りがちですね。これもバイアスです。
書籍に限らず、情報源の好き嫌いなどによってもこうしたバイアスがかかることがあるので、情報を受け取る時には自分がちゃんと理解できているのかを一度冷静に考えることも大切ですね。
◆ まとめ:「用語」を確認することで自分の理解度を測る
専門用語は、日常に溶け込み何気なく使われる時の意味と、専門分野で使われる時の意味では微妙に違っていることがあります。
またその中には誤解されているものや、あまり定義をはっきりさせていないものがあります。
例えば「重心」という言葉はよく使われますが、誤用されたり、その定義(意味)が違った形で説明がされていることがままあります。
また、新しい「用語」を聞いた時に、その用語の意味はよくわからないけどなんとなく周りが使ってるニュアンスで使う、なんてこともあります。
それは会話を楽しんだり、言葉遊びみたいにして楽しんだりする時、つまりコミュニケーションを円滑にする効果もあり、それはそれでとても大切なことですね。
ですが、物事について正確に述べる時には困ります。
自分が正確に理解できるのかを測る時には、それぞれの用語が「どういうものなのか」を自分の言葉で説明しきれるのか、その説明を他の人が聞いた時にちゃんと理解できるのか、などを確認すると良いと思います。
これは、そこで触れた情報について、間違っているにしてもどこが間違っているのか、どこで間違えたのか、などを考える時にも有効ですし、それを知る(推測する)ことで、一概に全てを否定してしまうことや、自分が同じような誤りに陥らないようにすることができるのだと思います。
でもまあ、やっぱりめんどくさいですし、「そこまでして」って思うところですね。
ですが、そういうこともあるのかも、と感じながら読んだり取り込んだりすることで、すでに取り入れたものと違う時に撥ね退けてしまったり、既知の情報と違うものに触れた時に、自分の中にあるものと照らし合わせることでより深い理解を得ることができると考えています。
(了)