雑記|2022年の終わりと 2023年の始まりに 僕の望む「言語化」と「理解」について

 2022年の終わりに何かを記しておこうと思い、思いつくままに長々と書いていたり居眠りしているうちに年が明け朝になってしまいました。
 明けましておはようございます。

 2022年は、あれこれをしようと思いながらも自分の能力が追いつかないためにあまりに動けなく、また最後に身体も痛めてしまってなにをしているのやら、というがっかりな一年でした。

 できる限り、自転車に携わりながら身につけてきたものを、整理し言葉に変換していこうと考えていたのですが、自分の中で未整理なものを見つけてはそれを表す言葉を探しているうちに時間が経過してしまうといったことを繰り返していました。
 これはこの年に限らず、ずっとそうなんですけどね。

 あることについて自分の中では理解が完了していても、また実際に動作・テクニックができても、すぐさまそれを伝えられる文章がかけるわけではありません。
 自分の身体を使う動作・テクニックの説明は、脳内での映像イメージや、自分だけに伝わるニュアンスの言語でも行うことができますが、それを人に伝える文章にするためには相手と共通の認識がある言葉を選択する、またはそうした言葉がない場合には代わりの言葉を使用するか言葉に対する共通認識を育てる必要があります。

 また、言語化したとしても、そのための手順・説明が長いと、途中で受け入れることを諦められてしまうようなこともあります。現に今これを読んでいる方の中にも、そろそろ読むのやめてブログから離脱しようかと考えている方がいると思います。

 そういう意味では、今年3月から定期的に作っていた短くコンパクトにまとめた動画は認識しやすく厳密に言語化しなくても良いので「伝えるツール」として優秀だなと思いました。

 それでも僕は、文章にする、言語化することは必要だと考えています。

 動画は便利ですが、時間単位の情報量が多く、目の付け所を間違うと全く誤った伝達がされることがあります。これは伝える側にもよく発生することで、これを是正するためには物体の運動の知識(力学)と、自転車の構造への理解、人間の身体の構造と運動の理解などが必要です。
 また、そうしたものに照らし合わせて考えるには、一つ一つの物事を細かく分解し、それぞれについて理解し、また再構築することでより確かな理論とその伝達方法を手に入れることが必要です。
 そのためには「言語化」は避けて通れないことだと考えられます。

 言語は、短い単語や文章によって脳内に具体的な物事を想起させることのできる優秀なツールです。
 伝えることの上手な方というのは、このツールを相手との共通認識が可能な範囲で選択し使うことができる人なのだと考えます。

 また、言語のそうした性質は、情報を圧縮し整理し考えるツールとしてもとても有効です。反対に、それを分解しより細かく整理していくことも可能です。
 いまこの瞬間、僕は考えながらこの文章を書いていますが、その「考える」ことができるのも言語の性質があるからできることです。

 言語を用いながら考え、自分の中にないものや触れられないものを圧縮しながら認識し、そうして認識できる存在を増やすことでより細かく前提を設定しながらより確度の高い考えをまとめ、そうしてまとめたものを何度もなぞりながら論理の綻びを繕っていくことができれば、多くの物事をまっすぐ捉え理解し実行できるはずで、僕はそこに面白さと人の発展可能性を感じています。

 また、わかりやすい言語によってそれを共有することができれば、自分にはない観点からの誰かの考えを得ることもできるのではないかと考えています。

 ですから、言語化によって、自分自身の論理の整理と、他者からの観点を得ることができ、それによってより多くのことを理解できたら嬉しいと考えているのです。

 

 また、これは物事だけではなく、人とのコミュニケーションでも同じことです。

 自分の周りの人、周りの人の周りにいる人、たまたまSNSやインターネットで微かに情報を得たりする人、全く関係がないけど何かの拍子に知り合うかもしれない人。そうした人の存在と、それぞれの人が個別にもつものを意識の中に置きながら言語を選択していくことで、断絶の起こり難い関わり方を得ることができるのではないかと考えています。

 人との関わり方や接し方は、人と関わる中で積んだ経験の中かからある程度パターン化して身につけたものだと考えられます。
 ですが、パターン化したものが通用するのはある程度の固定された社会でのことで、全くその外にいる人との間では通用しないことや嫌がられることもあるかもしれません。全く違う土地に住む人の慣習や考え方が相容れないものであることは珍しいことではありません。

 このパターン化したものは時々「共感」という言語で表されることがあります。共感を持つグループ内では、時々共通のニュアンスを持った言語の用い方や新しい単語を生んだりすることでより共感を強く感じることがあります。特別な言語やその用い方によって他者との差別化をし「他者とは違う」という認識を手に入れると特別感という共感が強まるのだと思われます。
 ですがそうすると、その人や人たちとの関わりは安心できるものになりますが、その特別感によってその他の人たちと理解し合うことが難しくなることがあります。

多くの人は、その時々において違う最適と思われる態度や言葉を選びますから、大した問題ではないはずですが、あまりに共感が強い、または強く求められる集団の中にいると、気がつかないうちにその振る舞いが周りから迷惑がられたりすることもあります。

 多様化が謳われる現在、それを避けるためには常日頃からそうした自分のパターンが通用しない存在がいるであろうと「考える」ことを練習し続ける必要があるように思います。つまり、目に見えない存在を意識の中に留めながら言葉や行動を選び続けるということです。

 これは想像するだけでとても大変な作業だとわかります。
 ですが、考えることを諦め、存在するものから目を背けたとしても、そこにその存在があるということに変わりはありません。

 では、どうしたら良いのだろうか、と考えます。

 現実的には、安心できる場所、そうしたことを考えなくても済む共通のパターンを持った場所や、ひとりで落ち着くことができる場所を確保し生活しながら、その外との関わりでは気をつけて言動を行う、ということになるのだと思います。
 これは、多くの人が当たり前に行なっていることですね。でも、この環境が手に入れられない人もいることも忘れないでいたいと思います。

 誰かの安心できる場所に対して自分のパターン(共感)を押し付けないことも必要なことだと考えます。
 そのためには、自分のことや相手のことを可能な限り理解しようとし、その上で「理解した」と早急に結論づけたりしないことも必要です。

 理解する、つまり細かく切り分けて考え、また再構築した上で論理の破綻がないかを確かめる作業をすることには、やはり言語が必要です。
 その上で、その言語的理解から外れるものが存在することを受け入れる、つまり理解の外にある存在や要素を肯定的に捉えることが求められます。なぜなら、人はそれほどいつも論理的に固定された存在ではありません。その論理的でなく理解しがたい部分によって人は変化を生じますし、何より論理的ではないものを許容する心自体がその部分によってもたらされると考えられるからです。

 ただこれも相互にそう思っていないと成り立たないことで、これが人間の関わりの難しさですね。僕のとても苦手な部分です。
 これとは違う考え方や手段も当然あることも理解できるように努めたいと思っています。

 

 理解できない存在を認知するためには、自分がどこまで理解しているかを認知する必要があります。この時、拙速に「理解した」としてしまうと、その範囲を見誤ってしまいます。

 自分がどんなものを理解していないのかを確認し、理解していないことを理解したことにしようとせず、「いまは理解できていないもの」として認知し置いておくこと、といったことができると、より素直に物事を捉えることができるように思います。

 知っていること、理解していること、できること、誰かとの関わりがあることなどを誰かに向かって誇ったり、自分を飾るアクセサリーにしてしまうと、そうした「理解できていないもの」が存在することを許容し続けることが難しくなることがあるように思います。

 理解することは考えること。そして理解を固定化せず何度もなぞるように考え続けていくことで、僕は「まっすぐに物事を見て理解できる」ようになるのではないかと考えています。
 これは、僕がずっとそうなりたいと思っていることなんです。

 そのためには、いまの僕にはまだ物事を言語化し理解する能力も、理解していないものをそのままにしておく許容の心も足りていないことを痛感したのが2022年でした。

 2023年、そしてその先、目的とする能力を獲得していけるのかはわかりませんが、自分が欲しがっているものですからゆっくりとでも歩んでいきたいと思います。

 今後ともよろしくお願いいたします。

2023年 元旦 記