みられる

少し、自分の動きを確認してみようと
ビデオカメラを引っ張り出して撮ってみました。
昨日も書いた「タイヤを潰す」動作についてです。
考えながら撮ってたので、グダグダ過ぎ。未公開予定(笑)

そもそも、身体の動きなどを考えるようになったのは
雑誌の連載(とっくに終了)で
『動きと感覚』を『言葉に変換』することを
強いられていたおかげ。

最初は連続写真で自分の動きと生徒さんの動きを見比べ
「どこがちがう?」「なんで伝わらない?」なんてことを
いろいろ考えてきたのでした。

そのうちに「動画もあったらわかりやすいんじゃない?」って
動画なんかも使うようになり、
なんとなく、自分の動きを客観的に見る事が多かった気がします。

ただ、自分の動きを見るだけでなく、
それを言葉に変換し、分かってもらえるように考える事が、
そのまま、自分の脳内に刷込まれてカラダの動きになる。

そんな感じでしょうかねー。

で、撮りながら1つ考えた事があります。

何かを人に伝えようと考えた時、
「自分」というのはとても邪魔なものなのではないか?
伝えるだけでなく、現そうとする時にも
「自分」が透けて見えるものはやはり濁って感じる。

現す物は自分ではなく
自分を通して何かを現す。

人前に立つ時も、
そこに立つ自分を見せるのではなく
自分という道具を通して伝える。

「自分」というのは名前もあるからその存在感は強く
自分と現す物がごっちゃになるけど、
でも大切な事なんじゃないのかなーと思う。

見えるのは自分。
でも伝わるのは自分を通した何か。

ん〜、うまく言えない。←これは自分。
文字から沸き立つイメージが自分通したもの。

そんな感じでしょうかねー。